今回は、just asという接続表現について考えてみたいと思います。この表現が文頭で用いられる場合、つまりjust asで導かれる従属節が、主節より先に来る場合に絞って、論を進めようと思います。そのため、表題をJust asのように、大文字から始めておきました。このJust asという表現は、接続詞asに、それを修飾する副詞justが付いて出来上がっています。ご存知の通り、asという接続詞には、1)「~のように」ないし「~のとおり」のように姿かたちが「同様」であることと、2)「~する時に」あるいは「~するにつれて」のように部分的ないしは全体的に「同時」であることと、3)「~なので」のような「理由」の意味の、合わせて3種類の意味がが区別出来ます。例文の(1)は1)の、 (2a)は2)、(2b)は3)それぞれの例に当たります。
(1) a. As you said, I was wrong.
(君の言ったように、僕が間違ってたね)
b. As I wished there was a further development.
(望んだとおり、更なる展開があったよ)
(2) a. As I said it, he looked hurt.
私がそう言うと、彼は傷付いたようだった。
b. As I don't like it, I decided not to cook it.
それは好きじゃないので、作らないことにした。
(cookingaroundtheworld.co.uk/2010/07/)
もちろん、注意しなければならないのは、個々の用例が必ずしも3種類の意味のいずれか一つに決まるわけではないという点です。例えば、 (2a)は文脈によって「私がそう言ったから、彼は傷付いたようだった」とも解釈出来るでしょう。
そもそも接続詞のasがこのように多義性を備えていますから、当然、Just asも多義性をもち得ることが論理的には予想されます。さて、それでは、Just asにも、上で1)、2)、3)として区別した、3種類の意味の違いがあるのでしょうか。例えば、1’)「丁度~のように・のとおり」、2’)「丁度~する時に・するにつれて」、3’)「丁度~なので」に相当するような多義性を持つのでしょうか。
2011年2月9日水曜日
2010年8月20日金曜日
『射る』(5)
標準的な日本語という観点からは、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』となるべきところを、話者によっては『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じることの動機について述べてきました。けれども、同じ話者が『射止める』や『射通す』のような表現に気付いたり、あるい思い出したりしたらどうでしょうか。
もし、『居る』ではなく、『要る』と同様な語形を取る(いわゆる活用をする)という前提に立つと、『射止める』や『射通す』に現れる『射る』の形と矛盾することに思い当たるかもしれません。けれども、その前提で想定される『射り止める』や『射り通す』という形は、どうにも据わりが悪く感じるでしょう。この段に及んで、『射る』が『止める』や『通す』に続く場合は、いわゆる連用形を取るはずで、その形が『射止める』や『射通す』では『いり』や『いっ』ではなく『い』なのだ。それでは、同じように連用形に続く『(~し)た』や『(~し)て』の前に『射る』が付いた形は、『射た』や『射て』なのではないかと推論を重ねるかもしれません。
こうした思考の筋道をひとたび辿ると、当初、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じていた話者にとっても、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』の方が俄然自然に思えてくるということも起り得ます。あるいは、そうなると『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』がそれこそ据わりの悪い表現にさえ感じてくるかもしれません。
とはいえ、このような推論を誰もが辿るわけではありません。一生、そのようなことには思い及ばない話者も少なくないのではないでしょうか。そうした話者の中では、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』、『矢を射らない』、『矢を射れ』、『矢を射ろ』などの表現が依然として据わりの良い(あるいは決して悪くない)語形であり続けるかもしれません。また、『射止める』や『射通す』とも直接に突き合せて考察されることもなく、従って、それらと矛盾を感じることなく、実質的な効果としては、
未然:ir-(anai)(射らない)
連用:it-(te)(射って)、ir-imasu(射ります)
終止:i-ru(射る)
連体:ir-u(射る)
仮定:i-re-(ba)(射れば)
命令:ir-o(射ろ)もしくはir-e(射れ)
のような活用に相当するものとしてまとめ得る語形を用いるのではないでしょうか。
既に指摘したとおり、動詞のいわゆる活用というのは、活用のタイプが厳然とあって、そのどれかに振り分けられるわけではないということが、こうした実例から理解できるのではないでしょうか。いわゆる活用形と呼ばれるものは、あくまでも否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられる場合に、据わりが良い(悪くはない)と判断された個々の語形であって、それらが五段活用、上一段活用と呼ばれる体系に合致する保障は必ずしもないのです。実際、同一の活用形と看做されるものに複数の語形が並存している場合が厳然と存在します。すぐ上でまとめた『射る』の活用形を例にすれば、連用形や命令形はまさしくそうした例に該当します。
こうした語形の振幅幅(しんぷくはば)のようなもの、英語ではleewayとでも呼び得るものでしょうか、そうしたものが存在する中に、言語使用と言語体系の本質が見え隠れするものです。こうした活用形に相当するものの多様性、柔軟性は共通語でも存在しますが、地域方言と呼ばれる長い伝統を持つ言語体系(方言体系)に一層豊かに観察されるようです。沖縄、九州、中国、四国、関西、中部、関東、北陸、東北、北海道など日本列島の各地の話者と『射る』の語形あるいは活用といったものを話題にしてみると興味深いことが沢山見付かるかもしれません。上一段活用をするとされる、たった一語の動詞に過ぎないかもしれませんが、とてつもない幅広い日本語文法の世界へと続く扉の一つなのかもしれません。
もし、『居る』ではなく、『要る』と同様な語形を取る(いわゆる活用をする)という前提に立つと、『射止める』や『射通す』に現れる『射る』の形と矛盾することに思い当たるかもしれません。けれども、その前提で想定される『射り止める』や『射り通す』という形は、どうにも据わりが悪く感じるでしょう。この段に及んで、『射る』が『止める』や『通す』に続く場合は、いわゆる連用形を取るはずで、その形が『射止める』や『射通す』では『いり』や『いっ』ではなく『い』なのだ。それでは、同じように連用形に続く『(~し)た』や『(~し)て』の前に『射る』が付いた形は、『射た』や『射て』なのではないかと推論を重ねるかもしれません。
こうした思考の筋道をひとたび辿ると、当初、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じていた話者にとっても、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』の方が俄然自然に思えてくるということも起り得ます。あるいは、そうなると『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』がそれこそ据わりの悪い表現にさえ感じてくるかもしれません。
とはいえ、このような推論を誰もが辿るわけではありません。一生、そのようなことには思い及ばない話者も少なくないのではないでしょうか。そうした話者の中では、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』、『矢を射らない』、『矢を射れ』、『矢を射ろ』などの表現が依然として据わりの良い(あるいは決して悪くない)語形であり続けるかもしれません。また、『射止める』や『射通す』とも直接に突き合せて考察されることもなく、従って、それらと矛盾を感じることなく、実質的な効果としては、
未然:ir-(anai)(射らない)
連用:it-(te)(射って)、ir-imasu(射ります)
終止:i-ru(射る)
連体:ir-u(射る)
仮定:i-re-(ba)(射れば)
命令:ir-o(射ろ)もしくはir-e(射れ)
のような活用に相当するものとしてまとめ得る語形を用いるのではないでしょうか。
既に指摘したとおり、動詞のいわゆる活用というのは、活用のタイプが厳然とあって、そのどれかに振り分けられるわけではないということが、こうした実例から理解できるのではないでしょうか。いわゆる活用形と呼ばれるものは、あくまでも否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられる場合に、据わりが良い(悪くはない)と判断された個々の語形であって、それらが五段活用、上一段活用と呼ばれる体系に合致する保障は必ずしもないのです。実際、同一の活用形と看做されるものに複数の語形が並存している場合が厳然と存在します。すぐ上でまとめた『射る』の活用形を例にすれば、連用形や命令形はまさしくそうした例に該当します。
こうした語形の振幅幅(しんぷくはば)のようなもの、英語ではleewayとでも呼び得るものでしょうか、そうしたものが存在する中に、言語使用と言語体系の本質が見え隠れするものです。こうした活用形に相当するものの多様性、柔軟性は共通語でも存在しますが、地域方言と呼ばれる長い伝統を持つ言語体系(方言体系)に一層豊かに観察されるようです。沖縄、九州、中国、四国、関西、中部、関東、北陸、東北、北海道など日本列島の各地の話者と『射る』の語形あるいは活用といったものを話題にしてみると興味深いことが沢山見付かるかもしれません。上一段活用をするとされる、たった一語の動詞に過ぎないかもしれませんが、とてつもない幅広い日本語文法の世界へと続く扉の一つなのかもしれません。
2010年8月19日木曜日
『射る』(4)
使用頻度の低い語形が据わりの悪いものと感じることから、何かもっと据わりの良いもの形はないものかと模索しがちだということを指摘しました。『要る』を例にすれば、『要って』よりも『要りて』の方が幾分据わりが良いように感じて、特に書き言葉ではそちらを選択する人もいるかもしれないという話をしました。このように、より据わりの良い形式を選ぼうとする話者の意識という点から、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと言う人さえいるということに説明を試みてみましょう。
古典語以来の言語事実に照らしても、(1)と(4)に挙げた『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』が標準的な観点からは正しいとされる形であることは明らかです。ところが、『射た』、『射て』という形はどうも据わりが悪いと感じる話者が少なからずいるようです。『矢を射た』と『矢を射った』、『矢を射て』と『矢を射って』、『矢を射ない』と『矢を射らない』、『矢を射ました』と『矢を射りました』、『矢を射よう』と『矢を射ろう』をネットで検索してみると、次のような数字が得られました。
『矢を射た』:約 164,000 件
『矢を射った』:約 51,800 件
『矢を射て』:約 179,000 件
『矢を射って』:約 73,200 件
『矢を射ない』:約 4,940 件
『矢を射らない』:約 562 件
『矢を射ました』:約 3,530 件
『矢を射りました』:約 83 件
『矢を射よう』:約 22,700 件
『矢を射ろう』:約 1,190 件
前回お話したように、『要る』は終止形・連体形・仮定形が『居る』と同じ形になります。『射る』は『居る』と同様な語形(いわゆる活用形)を取る種類の動詞なのですが、今回の話題の最初の箇所で述べたように、同士自体の使用が『居る』などに比べて限られており、様々な語形の使用例に触れる機会が少ない話者が多いようですy。そのため、『要る』が取る語形との類推も働きやすくなります。つまり、
未然:i-(nai)(射ない) <居ない
連用:i-(te)(射て) <居て
終止:i-ru(射る) <居る
連体:i-ru(射る) <居る
仮定:i-re-(ba)(射れば) <居れば
命令:i-yo(射よ) <居ろ
のような語形を用いると、未然形や連用形に当たる場合がどうも据わりの悪いように感じるわけです。寧ろ、
未然:ir-(anai)(射らない) <要らない
連用:it-(te)(射って) <要って
終止:ir-u(射る) <要る
連体:ir-u(射る) <要る
仮定:ir-e (ba)(射れば) <要れば
命令:ir-o(射ろ) <要ろ
のような語形を用いる方が据わりが良いと感じることが往々にして生じます。そのような判断をする話者たちは、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』よりも、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じるわけです。
このように、動詞のいわゆる活用というのは、活用のタイプが厳然とあって、そのどれかに振り分けられるというよりも、活用形と呼ばれるものに相当する個々の語形(否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられる場合の形)を他のより典型的な(使用頻度の高い)動詞の語形との類推で、より据わりの良いと感じる形が選び取られているということが分かります。
古典語以来の言語事実に照らしても、(1)と(4)に挙げた『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』が標準的な観点からは正しいとされる形であることは明らかです。ところが、『射た』、『射て』という形はどうも据わりが悪いと感じる話者が少なからずいるようです。『矢を射た』と『矢を射った』、『矢を射て』と『矢を射って』、『矢を射ない』と『矢を射らない』、『矢を射ました』と『矢を射りました』、『矢を射よう』と『矢を射ろう』をネットで検索してみると、次のような数字が得られました。
『矢を射た』:約 164,000 件
『矢を射った』:約 51,800 件
『矢を射て』:約 179,000 件
『矢を射って』:約 73,200 件
『矢を射ない』:約 4,940 件
『矢を射らない』:約 562 件
『矢を射ました』:約 3,530 件
『矢を射りました』:約 83 件
『矢を射よう』:約 22,700 件
『矢を射ろう』:約 1,190 件
前回お話したように、『要る』は終止形・連体形・仮定形が『居る』と同じ形になります。『射る』は『居る』と同様な語形(いわゆる活用形)を取る種類の動詞なのですが、今回の話題の最初の箇所で述べたように、同士自体の使用が『居る』などに比べて限られており、様々な語形の使用例に触れる機会が少ない話者が多いようですy。そのため、『要る』が取る語形との類推も働きやすくなります。つまり、
未然:i-(nai)(射ない) <居ない
連用:i-(te)(射て) <居て
終止:i-ru(射る) <居る
連体:i-ru(射る) <居る
仮定:i-re-(ba)(射れば) <居れば
命令:i-yo(射よ) <居ろ
のような語形を用いると、未然形や連用形に当たる場合がどうも据わりの悪いように感じるわけです。寧ろ、
未然:ir-(anai)(射らない) <要らない
連用:it-(te)(射って) <要って
終止:ir-u(射る) <要る
連体:ir-u(射る) <要る
仮定:ir-e (ba)(射れば) <要れば
命令:ir-o(射ろ) <要ろ
のような語形を用いる方が据わりが良いと感じることが往々にして生じます。そのような判断をする話者たちは、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』よりも、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じるわけです。
このように、動詞のいわゆる活用というのは、活用のタイプが厳然とあって、そのどれかに振り分けられるというよりも、活用形と呼ばれるものに相当する個々の語形(否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられる場合の形)を他のより典型的な(使用頻度の高い)動詞の語形との類推で、より据わりの良いと感じる形が選び取られているということが分かります。
『射る』(3)
(1)と(4)に挙げた『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』が標準的な観点からは正しいとされる形であることを確認しました。けれども、その一方で、(2)と(5)の『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』も正しいと感じる人も少なくなさそうだということを指摘しました。いや、寧ろ(2)や(5)の方が自然だと言う方さえいるかもしれません。これは、どういうことでしょうか。
実は、国文法(特に学校文法)で上一段や下一段の活用をすると言われる動詞は、『る』で終わる五段活用の動詞と終止形・連体形および仮定形が同じです。別の言い方をすれば、語幹が-iまたは-eで終わる母音幹動詞は、-rで終わる子音幹動詞と非過去-(r)uまたは仮定形-(r)ebaを取った形が見かけ上はどちらもruで終わる点が同じです。『居る』と『要る』、『変える』と『帰る』を例に取れば次の通りです。
i-ru『居る』、i-reba『居れば』
ir-u『要る』、ir-eba『要れば』
kae-ru『変える』、kae-reba『変えれば』
kaer-u『帰る』、kaer-eba『帰れば』
これらの動詞は、いずれも『射る』に比べると依然として使用の頻度が高く、使われる文脈や話題の範囲も遥かに広いため、否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられます。そうした中で、いわゆる未然、連用、終止・連体、過程などのいわゆる「活用形」に相当する様々な形が頻繁に現れるため、『居る』や『変える』はいわば正格の「上一段」や「下一段」の個々の活用形に対応する形式が意識的に用いられやすいのでしょう。
そんな中でも、『要る』が-(r)ebaと一緒に用いられる頻度は、-(a)nai、-(i)masu、-(i)ta、-(i)teに比べると低いようです。ネット検索してみると、次のような件数になりました。しかも、『要れば』の例を見てみると、『どなたか知っている方が要れば教えてください。』や『君が要れば』のような誤変換の例も相当数含まれているようです。『要る』という動詞に限ったとしても、このように活用形によっては使用頻度が比較的低いため、話者によっては許容しないということもあるようです。
『要らない』:約 4,150,000 件
『要ります』:約 540,000 件
『要った』:約 392,000 件
『要れば』:約 93,300 件
『要って』:約 490,000 件
使用頻度の低い語形(国文法で言うところの活用形に相当するもの)は、話者にとって据わりの悪いものと感じるものです。何かもっと据わりの良いもの形はないものかと模索しがちです。『要る』の例を今一度引けば、『要った』や『要って』を余り用いないために、どうも据わりが悪いと感じる人は、高校の授業や受験勉強で『古文』を学んだ際の記憶や、文章を読む中でであった文語の表現などを参照して、『要りたり』や『要りて』を模索するかもしれません。そして、場合によっては、『要りたり』は古風で選択肢にはなり得ないが、少なくとも『要りて』は『要って』よりも据わりが良いように感じるということもあるかもしれません。
実は、国文法(特に学校文法)で上一段や下一段の活用をすると言われる動詞は、『る』で終わる五段活用の動詞と終止形・連体形および仮定形が同じです。別の言い方をすれば、語幹が-iまたは-eで終わる母音幹動詞は、-rで終わる子音幹動詞と非過去-(r)uまたは仮定形-(r)ebaを取った形が見かけ上はどちらもruで終わる点が同じです。『居る』と『要る』、『変える』と『帰る』を例に取れば次の通りです。
i-ru『居る』、i-reba『居れば』
ir-u『要る』、ir-eba『要れば』
kae-ru『変える』、kae-reba『変えれば』
kaer-u『帰る』、kaer-eba『帰れば』
これらの動詞は、いずれも『射る』に比べると依然として使用の頻度が高く、使われる文脈や話題の範囲も遥かに広いため、否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられます。そうした中で、いわゆる未然、連用、終止・連体、過程などのいわゆる「活用形」に相当する様々な形が頻繁に現れるため、『居る』や『変える』はいわば正格の「上一段」や「下一段」の個々の活用形に対応する形式が意識的に用いられやすいのでしょう。
そんな中でも、『要る』が-(r)ebaと一緒に用いられる頻度は、-(a)nai、-(i)masu、-(i)ta、-(i)teに比べると低いようです。ネット検索してみると、次のような件数になりました。しかも、『要れば』の例を見てみると、『どなたか知っている方が要れば教えてください。』や『君が要れば』のような誤変換の例も相当数含まれているようです。『要る』という動詞に限ったとしても、このように活用形によっては使用頻度が比較的低いため、話者によっては許容しないということもあるようです。
『要らない』:約 4,150,000 件
『要ります』:約 540,000 件
『要った』:約 392,000 件
『要れば』:約 93,300 件
『要って』:約 490,000 件
使用頻度の低い語形(国文法で言うところの活用形に相当するもの)は、話者にとって据わりの悪いものと感じるものです。何かもっと据わりの良いもの形はないものかと模索しがちです。『要る』の例を今一度引けば、『要った』や『要って』を余り用いないために、どうも据わりが悪いと感じる人は、高校の授業や受験勉強で『古文』を学んだ際の記憶や、文章を読む中でであった文語の表現などを参照して、『要りたり』や『要りて』を模索するかもしれません。そして、場合によっては、『要りたり』は古風で選択肢にはなり得ないが、少なくとも『要りて』は『要って』よりも据わりが良いように感じるということもあるかもしれません。
『射る』(2)
今度は、『射る』という動詞のいわゆる活用形について見てみたいと思います。先ず、試みに、この動詞を過去形にしてみて下さい。『矢を射る』を例に取ってやってみましょうか。さて、どんな形になったでしょうか。
(1) 矢を射た。
(2) 矢を射った。
(3) 矢を射りた。
より深く内省して頂くために、「模範解答」と示す前に、もう一つやってみましょう。『矢を射る』の後に、『(~し)て獲物を仕留めた』とつなげてみて下さい。次の三つのどの形が思い浮かびましたか。
(4) 矢を射て獲物を仕留めた。
(5) 矢を射って獲物を仕留めた。
(6) 矢を射りて獲物を仕留めた。
さあ、どうでしょうか。実は、古典語ではもちろんのこと、現在でも恐らく「標準語」的な観点に立てば、(1)と(4)が正解で、それ以外は不正解です。前回の冒頭に書きましたとおり、『射る』は上一段の動詞です。従って、古典語では、
未然:i-(zu)(射ず)
連用:i-(te)(射て)
終止:i-ru(射る)
連体:i-ru(射る)
已然:i-re-(do)(射れど)
命令:i-yo(射よ)
現代語では、
未然:i-(nai)(射ない)
連用:i-(te)(射て)
終止:i-ru(射る)
連体:i-ru(射る)
仮定:i-re-(ba)(射れば)
命令:i-ro(射ろ)
となることが想定されます。ですから、連用形+『た』、連用形+『て』に従うと、(1)の『矢を射た』、(4)の『矢を射て獲物を仕留めた』となるはずです。
ところがどうでしょう。読者の方々の中には、
(2) 矢を射った。
や
(5) 矢を射って獲物を仕留めた。
の方が自然だと感じた方がいらっしゃるのではないでしょうか。そう感じた方々の日本語は間違っているのでしょうか。
(1) 矢を射た。
(2) 矢を射った。
(3) 矢を射りた。
より深く内省して頂くために、「模範解答」と示す前に、もう一つやってみましょう。『矢を射る』の後に、『(~し)て獲物を仕留めた』とつなげてみて下さい。次の三つのどの形が思い浮かびましたか。
(4) 矢を射て獲物を仕留めた。
(5) 矢を射って獲物を仕留めた。
(6) 矢を射りて獲物を仕留めた。
さあ、どうでしょうか。実は、古典語ではもちろんのこと、現在でも恐らく「標準語」的な観点に立てば、(1)と(4)が正解で、それ以外は不正解です。前回の冒頭に書きましたとおり、『射る』は上一段の動詞です。従って、古典語では、
未然:i-(zu)(射ず)
連用:i-(te)(射て)
終止:i-ru(射る)
連体:i-ru(射る)
已然:i-re-(do)(射れど)
命令:i-yo(射よ)
現代語では、
未然:i-(nai)(射ない)
連用:i-(te)(射て)
終止:i-ru(射る)
連体:i-ru(射る)
仮定:i-re-(ba)(射れば)
命令:i-ro(射ろ)
となることが想定されます。ですから、連用形+『た』、連用形+『て』に従うと、(1)の『矢を射た』、(4)の『矢を射て獲物を仕留めた』となるはずです。
ところがどうでしょう。読者の方々の中には、
(2) 矢を射った。
や
(5) 矢を射って獲物を仕留めた。
の方が自然だと感じた方がいらっしゃるのではないでしょうか。そう感じた方々の日本語は間違っているのでしょうか。
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