標準的な日本語という観点からは、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』となるべきところを、話者によっては『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じることの動機について述べてきました。けれども、同じ話者が『射止める』や『射通す』のような表現に気付いたり、あるい思い出したりしたらどうでしょうか。
もし、『居る』ではなく、『要る』と同様な語形を取る(いわゆる活用をする)という前提に立つと、『射止める』や『射通す』に現れる『射る』の形と矛盾することに思い当たるかもしれません。けれども、その前提で想定される『射り止める』や『射り通す』という形は、どうにも据わりが悪く感じるでしょう。この段に及んで、『射る』が『止める』や『通す』に続く場合は、いわゆる連用形を取るはずで、その形が『射止める』や『射通す』では『いり』や『いっ』ではなく『い』なのだ。それでは、同じように連用形に続く『(~し)た』や『(~し)て』の前に『射る』が付いた形は、『射た』や『射て』なのではないかと推論を重ねるかもしれません。
こうした思考の筋道をひとたび辿ると、当初、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じていた話者にとっても、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』の方が俄然自然に思えてくるということも起り得ます。あるいは、そうなると『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』がそれこそ据わりの悪い表現にさえ感じてくるかもしれません。
とはいえ、このような推論を誰もが辿るわけではありません。一生、そのようなことには思い及ばない話者も少なくないのではないでしょうか。そうした話者の中では、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』、『矢を射らない』、『矢を射れ』、『矢を射ろ』などの表現が依然として据わりの良い(あるいは決して悪くない)語形であり続けるかもしれません。また、『射止める』や『射通す』とも直接に突き合せて考察されることもなく、従って、それらと矛盾を感じることなく、実質的な効果としては、
未然:ir-(anai)(射らない)
連用:it-(te)(射って)、ir-imasu(射ります)
終止:i-ru(射る)
連体:ir-u(射る)
仮定:i-re-(ba)(射れば)
命令:ir-o(射ろ)もしくはir-e(射れ)
のような活用に相当するものとしてまとめ得る語形を用いるのではないでしょうか。
既に指摘したとおり、動詞のいわゆる活用というのは、活用のタイプが厳然とあって、そのどれかに振り分けられるわけではないということが、こうした実例から理解できるのではないでしょうか。いわゆる活用形と呼ばれるものは、あくまでも否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられる場合に、据わりが良い(悪くはない)と判断された個々の語形であって、それらが五段活用、上一段活用と呼ばれる体系に合致する保障は必ずしもないのです。実際、同一の活用形と看做されるものに複数の語形が並存している場合が厳然と存在します。すぐ上でまとめた『射る』の活用形を例にすれば、連用形や命令形はまさしくそうした例に該当します。
こうした語形の振幅幅(しんぷくはば)のようなもの、英語ではleewayとでも呼び得るものでしょうか、そうしたものが存在する中に、言語使用と言語体系の本質が見え隠れするものです。こうした活用形に相当するものの多様性、柔軟性は共通語でも存在しますが、地域方言と呼ばれる長い伝統を持つ言語体系(方言体系)に一層豊かに観察されるようです。沖縄、九州、中国、四国、関西、中部、関東、北陸、東北、北海道など日本列島の各地の話者と『射る』の語形あるいは活用といったものを話題にしてみると興味深いことが沢山見付かるかもしれません。上一段活用をするとされる、たった一語の動詞に過ぎないかもしれませんが、とてつもない幅広い日本語文法の世界へと続く扉の一つなのかもしれません。
2010年8月19日木曜日
『射る』(4)
使用頻度の低い語形が据わりの悪いものと感じることから、何かもっと据わりの良いもの形はないものかと模索しがちだということを指摘しました。『要る』を例にすれば、『要って』よりも『要りて』の方が幾分据わりが良いように感じて、特に書き言葉ではそちらを選択する人もいるかもしれないという話をしました。このように、より据わりの良い形式を選ぼうとする話者の意識という点から、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと言う人さえいるということに説明を試みてみましょう。
古典語以来の言語事実に照らしても、(1)と(4)に挙げた『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』が標準的な観点からは正しいとされる形であることは明らかです。ところが、『射た』、『射て』という形はどうも据わりが悪いと感じる話者が少なからずいるようです。『矢を射た』と『矢を射った』、『矢を射て』と『矢を射って』、『矢を射ない』と『矢を射らない』、『矢を射ました』と『矢を射りました』、『矢を射よう』と『矢を射ろう』をネットで検索してみると、次のような数字が得られました。
『矢を射た』:約 164,000 件
『矢を射った』:約 51,800 件
『矢を射て』:約 179,000 件
『矢を射って』:約 73,200 件
『矢を射ない』:約 4,940 件
『矢を射らない』:約 562 件
『矢を射ました』:約 3,530 件
『矢を射りました』:約 83 件
『矢を射よう』:約 22,700 件
『矢を射ろう』:約 1,190 件
前回お話したように、『要る』は終止形・連体形・仮定形が『居る』と同じ形になります。『射る』は『居る』と同様な語形(いわゆる活用形)を取る種類の動詞なのですが、今回の話題の最初の箇所で述べたように、同士自体の使用が『居る』などに比べて限られており、様々な語形の使用例に触れる機会が少ない話者が多いようですy。そのため、『要る』が取る語形との類推も働きやすくなります。つまり、
未然:i-(nai)(射ない) <居ない
連用:i-(te)(射て) <居て
終止:i-ru(射る) <居る
連体:i-ru(射る) <居る
仮定:i-re-(ba)(射れば) <居れば
命令:i-yo(射よ) <居ろ
のような語形を用いると、未然形や連用形に当たる場合がどうも据わりの悪いように感じるわけです。寧ろ、
未然:ir-(anai)(射らない) <要らない
連用:it-(te)(射って) <要って
終止:ir-u(射る) <要る
連体:ir-u(射る) <要る
仮定:ir-e (ba)(射れば) <要れば
命令:ir-o(射ろ) <要ろ
のような語形を用いる方が据わりが良いと感じることが往々にして生じます。そのような判断をする話者たちは、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』よりも、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じるわけです。
このように、動詞のいわゆる活用というのは、活用のタイプが厳然とあって、そのどれかに振り分けられるというよりも、活用形と呼ばれるものに相当する個々の語形(否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられる場合の形)を他のより典型的な(使用頻度の高い)動詞の語形との類推で、より据わりの良いと感じる形が選び取られているということが分かります。
古典語以来の言語事実に照らしても、(1)と(4)に挙げた『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』が標準的な観点からは正しいとされる形であることは明らかです。ところが、『射た』、『射て』という形はどうも据わりが悪いと感じる話者が少なからずいるようです。『矢を射た』と『矢を射った』、『矢を射て』と『矢を射って』、『矢を射ない』と『矢を射らない』、『矢を射ました』と『矢を射りました』、『矢を射よう』と『矢を射ろう』をネットで検索してみると、次のような数字が得られました。
『矢を射た』:約 164,000 件
『矢を射った』:約 51,800 件
『矢を射て』:約 179,000 件
『矢を射って』:約 73,200 件
『矢を射ない』:約 4,940 件
『矢を射らない』:約 562 件
『矢を射ました』:約 3,530 件
『矢を射りました』:約 83 件
『矢を射よう』:約 22,700 件
『矢を射ろう』:約 1,190 件
前回お話したように、『要る』は終止形・連体形・仮定形が『居る』と同じ形になります。『射る』は『居る』と同様な語形(いわゆる活用形)を取る種類の動詞なのですが、今回の話題の最初の箇所で述べたように、同士自体の使用が『居る』などに比べて限られており、様々な語形の使用例に触れる機会が少ない話者が多いようですy。そのため、『要る』が取る語形との類推も働きやすくなります。つまり、
未然:i-(nai)(射ない) <居ない
連用:i-(te)(射て) <居て
終止:i-ru(射る) <居る
連体:i-ru(射る) <居る
仮定:i-re-(ba)(射れば) <居れば
命令:i-yo(射よ) <居ろ
のような語形を用いると、未然形や連用形に当たる場合がどうも据わりの悪いように感じるわけです。寧ろ、
未然:ir-(anai)(射らない) <要らない
連用:it-(te)(射って) <要って
終止:ir-u(射る) <要る
連体:ir-u(射る) <要る
仮定:ir-e (ba)(射れば) <要れば
命令:ir-o(射ろ) <要ろ
のような語形を用いる方が据わりが良いと感じることが往々にして生じます。そのような判断をする話者たちは、『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』よりも、『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』の方が自然だと感じるわけです。
このように、動詞のいわゆる活用というのは、活用のタイプが厳然とあって、そのどれかに振り分けられるというよりも、活用形と呼ばれるものに相当する個々の語形(否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられる場合の形)を他のより典型的な(使用頻度の高い)動詞の語形との類推で、より据わりの良いと感じる形が選び取られているということが分かります。
『射る』(3)
(1)と(4)に挙げた『矢を射た』、『矢を射て獲物を仕留めた』が標準的な観点からは正しいとされる形であることを確認しました。けれども、その一方で、(2)と(5)の『矢を射った』、『矢を射って獲物を仕留めた』も正しいと感じる人も少なくなさそうだということを指摘しました。いや、寧ろ(2)や(5)の方が自然だと言う方さえいるかもしれません。これは、どういうことでしょうか。
実は、国文法(特に学校文法)で上一段や下一段の活用をすると言われる動詞は、『る』で終わる五段活用の動詞と終止形・連体形および仮定形が同じです。別の言い方をすれば、語幹が-iまたは-eで終わる母音幹動詞は、-rで終わる子音幹動詞と非過去-(r)uまたは仮定形-(r)ebaを取った形が見かけ上はどちらもruで終わる点が同じです。『居る』と『要る』、『変える』と『帰る』を例に取れば次の通りです。
i-ru『居る』、i-reba『居れば』
ir-u『要る』、ir-eba『要れば』
kae-ru『変える』、kae-reba『変えれば』
kaer-u『帰る』、kaer-eba『帰れば』
これらの動詞は、いずれも『射る』に比べると依然として使用の頻度が高く、使われる文脈や話題の範囲も遥かに広いため、否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられます。そうした中で、いわゆる未然、連用、終止・連体、過程などのいわゆる「活用形」に相当する様々な形が頻繁に現れるため、『居る』や『変える』はいわば正格の「上一段」や「下一段」の個々の活用形に対応する形式が意識的に用いられやすいのでしょう。
そんな中でも、『要る』が-(r)ebaと一緒に用いられる頻度は、-(a)nai、-(i)masu、-(i)ta、-(i)teに比べると低いようです。ネット検索してみると、次のような件数になりました。しかも、『要れば』の例を見てみると、『どなたか知っている方が要れば教えてください。』や『君が要れば』のような誤変換の例も相当数含まれているようです。『要る』という動詞に限ったとしても、このように活用形によっては使用頻度が比較的低いため、話者によっては許容しないということもあるようです。
『要らない』:約 4,150,000 件
『要ります』:約 540,000 件
『要った』:約 392,000 件
『要れば』:約 93,300 件
『要って』:約 490,000 件
使用頻度の低い語形(国文法で言うところの活用形に相当するもの)は、話者にとって据わりの悪いものと感じるものです。何かもっと据わりの良いもの形はないものかと模索しがちです。『要る』の例を今一度引けば、『要った』や『要って』を余り用いないために、どうも据わりが悪いと感じる人は、高校の授業や受験勉強で『古文』を学んだ際の記憶や、文章を読む中でであった文語の表現などを参照して、『要りたり』や『要りて』を模索するかもしれません。そして、場合によっては、『要りたり』は古風で選択肢にはなり得ないが、少なくとも『要りて』は『要って』よりも据わりが良いように感じるということもあるかもしれません。
実は、国文法(特に学校文法)で上一段や下一段の活用をすると言われる動詞は、『る』で終わる五段活用の動詞と終止形・連体形および仮定形が同じです。別の言い方をすれば、語幹が-iまたは-eで終わる母音幹動詞は、-rで終わる子音幹動詞と非過去-(r)uまたは仮定形-(r)ebaを取った形が見かけ上はどちらもruで終わる点が同じです。『居る』と『要る』、『変える』と『帰る』を例に取れば次の通りです。
i-ru『居る』、i-reba『居れば』
ir-u『要る』、ir-eba『要れば』
kae-ru『変える』、kae-reba『変えれば』
kaer-u『帰る』、kaer-eba『帰れば』
これらの動詞は、いずれも『射る』に比べると依然として使用の頻度が高く、使われる文脈や話題の範囲も遥かに広いため、否定の-(a)nai、丁寧の-(i)masu、完了の-(i)ta、連続の-(i)te、仮定の-(r)ebaなどと共に用いられます。そうした中で、いわゆる未然、連用、終止・連体、過程などのいわゆる「活用形」に相当する様々な形が頻繁に現れるため、『居る』や『変える』はいわば正格の「上一段」や「下一段」の個々の活用形に対応する形式が意識的に用いられやすいのでしょう。
そんな中でも、『要る』が-(r)ebaと一緒に用いられる頻度は、-(a)nai、-(i)masu、-(i)ta、-(i)teに比べると低いようです。ネット検索してみると、次のような件数になりました。しかも、『要れば』の例を見てみると、『どなたか知っている方が要れば教えてください。』や『君が要れば』のような誤変換の例も相当数含まれているようです。『要る』という動詞に限ったとしても、このように活用形によっては使用頻度が比較的低いため、話者によっては許容しないということもあるようです。
『要らない』:約 4,150,000 件
『要ります』:約 540,000 件
『要った』:約 392,000 件
『要れば』:約 93,300 件
『要って』:約 490,000 件
使用頻度の低い語形(国文法で言うところの活用形に相当するもの)は、話者にとって据わりの悪いものと感じるものです。何かもっと据わりの良いもの形はないものかと模索しがちです。『要る』の例を今一度引けば、『要った』や『要って』を余り用いないために、どうも据わりが悪いと感じる人は、高校の授業や受験勉強で『古文』を学んだ際の記憶や、文章を読む中でであった文語の表現などを参照して、『要りたり』や『要りて』を模索するかもしれません。そして、場合によっては、『要りたり』は古風で選択肢にはなり得ないが、少なくとも『要りて』は『要って』よりも据わりが良いように感じるということもあるかもしれません。
『射る』(2)
今度は、『射る』という動詞のいわゆる活用形について見てみたいと思います。先ず、試みに、この動詞を過去形にしてみて下さい。『矢を射る』を例に取ってやってみましょうか。さて、どんな形になったでしょうか。
(1) 矢を射た。
(2) 矢を射った。
(3) 矢を射りた。
より深く内省して頂くために、「模範解答」と示す前に、もう一つやってみましょう。『矢を射る』の後に、『(~し)て獲物を仕留めた』とつなげてみて下さい。次の三つのどの形が思い浮かびましたか。
(4) 矢を射て獲物を仕留めた。
(5) 矢を射って獲物を仕留めた。
(6) 矢を射りて獲物を仕留めた。
さあ、どうでしょうか。実は、古典語ではもちろんのこと、現在でも恐らく「標準語」的な観点に立てば、(1)と(4)が正解で、それ以外は不正解です。前回の冒頭に書きましたとおり、『射る』は上一段の動詞です。従って、古典語では、
未然:i-(zu)(射ず)
連用:i-(te)(射て)
終止:i-ru(射る)
連体:i-ru(射る)
已然:i-re-(do)(射れど)
命令:i-yo(射よ)
現代語では、
未然:i-(nai)(射ない)
連用:i-(te)(射て)
終止:i-ru(射る)
連体:i-ru(射る)
仮定:i-re-(ba)(射れば)
命令:i-ro(射ろ)
となることが想定されます。ですから、連用形+『た』、連用形+『て』に従うと、(1)の『矢を射た』、(4)の『矢を射て獲物を仕留めた』となるはずです。
ところがどうでしょう。読者の方々の中には、
(2) 矢を射った。
や
(5) 矢を射って獲物を仕留めた。
の方が自然だと感じた方がいらっしゃるのではないでしょうか。そう感じた方々の日本語は間違っているのでしょうか。
(1) 矢を射た。
(2) 矢を射った。
(3) 矢を射りた。
より深く内省して頂くために、「模範解答」と示す前に、もう一つやってみましょう。『矢を射る』の後に、『(~し)て獲物を仕留めた』とつなげてみて下さい。次の三つのどの形が思い浮かびましたか。
(4) 矢を射て獲物を仕留めた。
(5) 矢を射って獲物を仕留めた。
(6) 矢を射りて獲物を仕留めた。
さあ、どうでしょうか。実は、古典語ではもちろんのこと、現在でも恐らく「標準語」的な観点に立てば、(1)と(4)が正解で、それ以外は不正解です。前回の冒頭に書きましたとおり、『射る』は上一段の動詞です。従って、古典語では、
未然:i-(zu)(射ず)
連用:i-(te)(射て)
終止:i-ru(射る)
連体:i-ru(射る)
已然:i-re-(do)(射れど)
命令:i-yo(射よ)
現代語では、
未然:i-(nai)(射ない)
連用:i-(te)(射て)
終止:i-ru(射る)
連体:i-ru(射る)
仮定:i-re-(ba)(射れば)
命令:i-ro(射ろ)
となることが想定されます。ですから、連用形+『た』、連用形+『て』に従うと、(1)の『矢を射た』、(4)の『矢を射て獲物を仕留めた』となるはずです。
ところがどうでしょう。読者の方々の中には、
(2) 矢を射った。
や
(5) 矢を射って獲物を仕留めた。
の方が自然だと感じた方がいらっしゃるのではないでしょうか。そう感じた方々の日本語は間違っているのでしょうか。
『射る』(1)
『射る』という上一段の動詞を取り上げて、いわゆる活用や語法の発達(人によっては「乱れ」と呼ぶかもしれません)について考えてみようと思います。多くの日本語を話者が弓と矢という道具ないし武器を用いることもなければ、実際に目にすることすら極端に少なくなった(場合によってはなくなった)ことに原因があるかもしれませんが、弓道やアーチェリーなどの文脈、もしくは弓矢を使って戦いや狩猟をする時代ないし場面を話題にする際にしか文字通りの意味では用いられないようで、他の文脈、他の話題で日常的に用いるとすれば、比喩的な意味での使用が普通のようです。そうした使用の偏りが、この動詞の語法に反映しているようです。
『射る』は、もともともっぱら『矢』を目的語に取る他動詞だったようです。大野・佐竹・前田先生の辞典を引きますと、
〔上一〕矢を発射する。
とあります。ところが、実際に『弓を射る』という表現をネット検索してみると、約 650,000 件も見付かります。ちなみに『矢を射る』の方を検索しますと、約 825,000 件が拾われてきますので、一方が圧倒的な割合を占めるとはもはや言えないかもしれません。つまり、現代日本語では、『弓を射る』も『矢を射る』も可能な表現となっているということです。
この点で興味深いのは、「日常的」に弓矢を話題にすることが多いと思われる人々の間では、「射る」対象は「矢」であって「弓」ではないことが程度の差こそあれ意識されているらしいということです。デビール田中さんという方がご自身のホームページで、「間違いやすい弓道用語」(ecoecoman.com/kyudo/howto/kotoba.html)を紹介して下さっています。その中に、「弓は引くもの・矢は射るもの」という項を上げ、
○:弓を引く
△:弓を射る、撃つ
×:弓を打つ
という見出し毎に簡単な解説を加えて下さっています。ここからも、やはり本来は「矢」を「射る」のであって、「弓」を射るわけではないという理解が読み取れます。けれども、同時に多くの人が「弓」をも「射る」と表現するという実態を受けて、そうした言い回しも許容する姿勢が示されているようです。
『射る』は、もともともっぱら『矢』を目的語に取る他動詞だったようです。大野・佐竹・前田先生の辞典を引きますと、
〔上一〕矢を発射する。
とあります。ところが、実際に『弓を射る』という表現をネット検索してみると、約 650,000 件も見付かります。ちなみに『矢を射る』の方を検索しますと、約 825,000 件が拾われてきますので、一方が圧倒的な割合を占めるとはもはや言えないかもしれません。つまり、現代日本語では、『弓を射る』も『矢を射る』も可能な表現となっているということです。
この点で興味深いのは、「日常的」に弓矢を話題にすることが多いと思われる人々の間では、「射る」対象は「矢」であって「弓」ではないことが程度の差こそあれ意識されているらしいということです。デビール田中さんという方がご自身のホームページで、「間違いやすい弓道用語」(ecoecoman.com/kyudo/howto/kotoba.html)を紹介して下さっています。その中に、「弓は引くもの・矢は射るもの」という項を上げ、
○:弓を引く
△:弓を射る、撃つ
×:弓を打つ
という見出し毎に簡単な解説を加えて下さっています。ここからも、やはり本来は「矢」を「射る」のであって、「弓」を射るわけではないという理解が読み取れます。けれども、同時に多くの人が「弓」をも「射る」と表現するという実態を受けて、そうした言い回しも許容する姿勢が示されているようです。
2010年7月22日木曜日
前置詞のtoとwith(5)
では、最後に「前置詞のtoとwith(1)」で提起した、「XをYと比べる」にはwithを、「XをYに例える」にはtoを用いてきたのは何故かという問いに答えてみましょう。前置詞のtoとwithは、各々と一緒に用いられる形容詞との関係から、それぞれ「近い・似ている」と「同じ場にある・同じ」という意味と密接に結び付いていることが分かりました。言い換えれば、X to Y、X with Yは、それぞれ「XがYに近い、XがYに似ている」こと、「XがYと同じ場所にある、XがYと同じ」ことを意味するものとして特徴付けることが出来ます。
すると、SVX to Yは「SがXをYに近いか似ている関係に移動させる」ことを、SVX with Yは「SがXをY同じ場所か同じである関係に移動させる」ことを表す構文として特徴付けられることになります。実際、SVX to Yで用いた際にcompareが本来持つとされる「例える」の意味は、「近いか似ている関係に移動させる」ことに他なりません。また、SVX with Yで用いた場合にcompareが本来持つとされる「比べる」の意味は、「同じであるか」どうかを調べようとして同じ場所に並べることになりますから、正に「同じ場所か同じである関係に移動させる」ことに相当します。
こうした理由からcompareという動詞は、SVX with Yで「XをYと比べる」という意味を、SVX to Yで「XをYに例える」という意味を表現するということが納得出来ないでしょうか。この話題の冒頭でも指摘したとおり、現在でもこの区別を意識している話者も少なくはないようです。そうした区別をあまり厳密にしない話者が増えて一方で、依然として「XをYと比べる」にはwithを、「XをYに例える」にはtoを用いるという区別を意識している話者たちがいることも事実です。けれども、それは、大した理由もなく単に意固地でそれに固執しているというものではないらしいことが感じ取れないでしょうか。compareという動がSVX with YとSVX to Yのそれぞれの構文で用いられる際には、withとtoという二つの前置詞の意味や機能に起因する構文の違いに基づいて、動詞の意味が使い分けられていると考えるのが妥当だと思われます。
すると、SVX to Yは「SがXをYに近いか似ている関係に移動させる」ことを、SVX with Yは「SがXをY同じ場所か同じである関係に移動させる」ことを表す構文として特徴付けられることになります。実際、SVX to Yで用いた際にcompareが本来持つとされる「例える」の意味は、「近いか似ている関係に移動させる」ことに他なりません。また、SVX with Yで用いた場合にcompareが本来持つとされる「比べる」の意味は、「同じであるか」どうかを調べようとして同じ場所に並べることになりますから、正に「同じ場所か同じである関係に移動させる」ことに相当します。
こうした理由からcompareという動詞は、SVX with Yで「XをYと比べる」という意味を、SVX to Yで「XをYに例える」という意味を表現するということが納得出来ないでしょうか。この話題の冒頭でも指摘したとおり、現在でもこの区別を意識している話者も少なくはないようです。そうした区別をあまり厳密にしない話者が増えて一方で、依然として「XをYと比べる」にはwithを、「XをYに例える」にはtoを用いるという区別を意識している話者たちがいることも事実です。けれども、それは、大した理由もなく単に意固地でそれに固執しているというものではないらしいことが感じ取れないでしょうか。compareという動がSVX with YとSVX to Yのそれぞれの構文で用いられる際には、withとtoという二つの前置詞の意味や機能に起因する構文の違いに基づいて、動詞の意味が使い分けられていると考えるのが妥当だと思われます。
前置詞のtoとwith(4)
前回、X to Yは「XがYに近い、XがYに似ている」という意味を持ち、X from Yは「XがYから遠い、XがYと違う」という意味を持つらしいことを指摘しました。これは、同様に「近い」を意味するnearやapproximateも、「似ている」を意味するlikeやanalogousあるいはcomparableも、同様にtoと共起することから裏付けられます。因みに、toと対をなすfromの場合も、やはり「遠い」ことや「違う」ことを含意するseparateやdistinctと共起しやすいという点で同様です。
さて、それではwithの意味はどうでしょうか。toの場合と同様に形容詞との共起関係を頼りに考えてみたいと思います。先ず、「近い」や「遠い」のように具体的な意味としては、固い語ですがparallelやconcomitantやcoincidentのように「同じ場にある」ことを意味する形容詞と共起しますし、「似ている」や「違う」に類する抽象的な意味では、equalやidenticalのように「同じ」という意味の形容詞と共起します。従って、withは寧ろ「同じ場にある」こと、「同じ」ことという意味と密接に結び付いていると考えることが出来ます。
興味深いことに、これらwithと共起する形容詞の中には、parallel、concomitant、equal、identicalのようにtoとも共起するものがあり、それらがwithではなくtoと共起した場合には、「同じ場にある」や「同じ」ではなく、「近い」、「似ている」に意味がぐっと傾くようです。この点でも、withとtoの特徴付けは妥当でありそうです。
さて、それではwithの意味はどうでしょうか。toの場合と同様に形容詞との共起関係を頼りに考えてみたいと思います。先ず、「近い」や「遠い」のように具体的な意味としては、固い語ですがparallelやconcomitantやcoincidentのように「同じ場にある」ことを意味する形容詞と共起しますし、「似ている」や「違う」に類する抽象的な意味では、equalやidenticalのように「同じ」という意味の形容詞と共起します。従って、withは寧ろ「同じ場にある」こと、「同じ」ことという意味と密接に結び付いていると考えることが出来ます。
興味深いことに、これらwithと共起する形容詞の中には、parallel、concomitant、equal、identicalのようにtoとも共起するものがあり、それらがwithではなくtoと共起した場合には、「同じ場にある」や「同じ」ではなく、「近い」、「似ている」に意味がぐっと傾くようです。この点でも、withとtoの特徴付けは妥当でありそうです。
前置詞のtoとwith(3)
さて、前置詞toとfromが共起しやすい形容詞は、close、farの他にもないでしょうか。すこし固い表現になりますが、similarとdifferentがあります。これらも、前回に見たclose、farの場合と同じように、to、fromそれぞれとの共起にはっきりとした傾向があるようです。similar toとdifferent fromが頻度の高い言い方で、前置詞を入れ替えたsimilar fromとdifferent toは、それに比べて用いられにくいようです。
試しにインターネット検索を試みると、“is similar from”が約 209,000 件なのに対して、“is similar to”は約 902,000,000 件に上ります。また、“is different to”が約 11,900,000 件なのに対して、“is different from”は約 99,600,000 件を数えます。different toは、similar fromに比べて多くの使用例が見付かることから、different fromほどではないにしろ、ある程度の使用率がある表現であると見て良いでしょう。ですが、similarとto、differentとfromの結びつきは、前置詞を入れ替えた場合に比べて遥かに密接であることは確かです。
以上のことをまとめると、toは「似ている」と、fromは「違う」という意味と関係が深いということになります。closeとfarとの関連で指摘した「近い」と「遠い」の意味を合わせると、X to YとX from Yは、次のように特徴付けることが出来ます。
X to Y:XがYに近い、XがYに似ている
X from Y:XがYから遠い、XがYと違う
試しにインターネット検索を試みると、“is similar from”が約 209,000 件なのに対して、“is similar to”は約 902,000,000 件に上ります。また、“is different to”が約 11,900,000 件なのに対して、“is different from”は約 99,600,000 件を数えます。different toは、similar fromに比べて多くの使用例が見付かることから、different fromほどではないにしろ、ある程度の使用率がある表現であると見て良いでしょう。ですが、similarとto、differentとfromの結びつきは、前置詞を入れ替えた場合に比べて遥かに密接であることは確かです。
以上のことをまとめると、toは「似ている」と、fromは「違う」という意味と関係が深いということになります。closeとfarとの関連で指摘した「近い」と「遠い」の意味を合わせると、X to YとX from Yは、次のように特徴付けることが出来ます。
X to Y:XがYに近い、XがYに似ている
X from Y:XがYから遠い、XがYと違う
前置詞のtoとwith(2)
翻って考えてみると、toはfromと対になりやすい前置詞です。そこで、先ずはこれら二つの比較からtoの意味を引き出すことを試みてみようと思います。形容詞との共起関係を参照することで、toの意味がより豊かに浮かび上がるはずです。
toやfromと一緒に用いられやすい形容詞としては、第一に遠近を表すclose (to)、far (from)が思いつきます。興味深いことに、「~から近い」や「~へは遠い」の意味を表現するにしても、close fromやfar toはclose to、far fromに比べて用いられにくいようです。その証拠に、それぞれの表現を検索してみると、 “is close from”は「約 141,000 件」、“is far to”は「約 6,590,000 件」なのに対して、“is close to”は「約 101,000,000 件」、“is far from”は「約 108,000,000 件」に上ります。
“is close from”の「約 141,000 件」と“is far to”の「約 6,590,000 件」は、依然として数字は大きいように見えますが、一つ一つを見ていくと、日本人が書いたらしいページが際立って多い印象を覚えます。どうか、ご自身で検索を掛けてご確認してみて下さい。それに比べると、“is close to”の「約 101,000,000 件」と“is far from”の「約 108,000,000 件」は、いずれも桁違いに多いだけでなく、日本人が書いたらしいページも“is close from”や“is far to”ほどには目立たないようです。
このように、“close from”や“ far to”は程度の差こそあれ不自然で、“close to”や“far from”の方が自然であるというのが事実であるとすれば、toは「近い」こと、fromは「遠い」ことと密接な意味を持っているということが分かります。つまり、X to Yは「XがYに近い」ことを、X from Yは「XがYから遠い」ことを意味すると理解することが出来ます。これに従えば、compare X to Yは「XをYに近い関係に移動させる」ことを意味すると捉えられます。
toやfromと一緒に用いられやすい形容詞としては、第一に遠近を表すclose (to)、far (from)が思いつきます。興味深いことに、「~から近い」や「~へは遠い」の意味を表現するにしても、close fromやfar toはclose to、far fromに比べて用いられにくいようです。その証拠に、それぞれの表現を検索してみると、 “is close from”は「約 141,000 件」、“is far to”は「約 6,590,000 件」なのに対して、“is close to”は「約 101,000,000 件」、“is far from”は「約 108,000,000 件」に上ります。
“is close from”の「約 141,000 件」と“is far to”の「約 6,590,000 件」は、依然として数字は大きいように見えますが、一つ一つを見ていくと、日本人が書いたらしいページが際立って多い印象を覚えます。どうか、ご自身で検索を掛けてご確認してみて下さい。それに比べると、“is close to”の「約 101,000,000 件」と“is far from”の「約 108,000,000 件」は、いずれも桁違いに多いだけでなく、日本人が書いたらしいページも“is close from”や“is far to”ほどには目立たないようです。
このように、“close from”や“ far to”は程度の差こそあれ不自然で、“close to”や“far from”の方が自然であるというのが事実であるとすれば、toは「近い」こと、fromは「遠い」ことと密接な意味を持っているということが分かります。つまり、X to Yは「XがYに近い」ことを、X from Yは「XがYから遠い」ことを意味すると理解することが出来ます。これに従えば、compare X to Yは「XをYに近い関係に移動させる」ことを意味すると捉えられます。
前置詞のtoとwith(1)
compareという動詞は、SVX with YとSVX to Yの構文で用いられて、「XをYと比べる」、「XをYに例える」の意味を表現します。現代の英語では、いずれの構文で用いられた場合も、程度のこそあれ、どちらの意味も表し得るようです。けれども、元来はSVX with Yで「XをYと比べる」、SVX to Yで「XをYに例える」の意味を表現したらしく、現在でもこの区別を意識している話者も少なくはないようです。
さて、それでは何故「XをYと比べる」にはwithを、「XをYに例える」にはtoを用いてきたのでしょうか。compareという動詞が同じである限りにおいては、SVX with YとSVX to Yのそれぞれの構文で用いられる際の違いは、少なからずこれら二つの前置詞の意味や機能の違いに因ると考えられます。
これらの構文で用いられるwithやtoを前置詞一般を指すものとしてprep.と置き換えてみると、いずれの構文もSVX prep. Yと一般化することが出来ます。これは、Goldberg (1995) Constructions: A Construction Grammar Approach to Argument Structure (Cognitive Theory of Language and Culture Series)
などでcaused motion constructionと呼ばれる構文に当たり、「S」が力を加えることで「X」が「Y」とprep.の関係に移動することを意味するものとして特徴付けられます。
この特徴づけに従えば、SVX with YとSVX to Yのそれぞれでは、「S」が力を加えることで「X」が「Y」とwithあるいはtoの関係に移動することを意味することになります。その場合の「withあるいはtoの関係」とは一体どんな関係なのでしょうか。今回は、この点から前置詞のwithとtoの意味を考えてみたいと思います。
さて、それでは何故「XをYと比べる」にはwithを、「XをYに例える」にはtoを用いてきたのでしょうか。compareという動詞が同じである限りにおいては、SVX with YとSVX to Yのそれぞれの構文で用いられる際の違いは、少なからずこれら二つの前置詞の意味や機能の違いに因ると考えられます。
これらの構文で用いられるwithやtoを前置詞一般を指すものとしてprep.と置き換えてみると、いずれの構文もSVX prep. Yと一般化することが出来ます。これは、Goldberg (1995) Constructions: A Construction Grammar Approach to Argument Structure (Cognitive Theory of Language and Culture Series)
などでcaused motion constructionと呼ばれる構文に当たり、「S」が力を加えることで「X」が「Y」とprep.の関係に移動することを意味するものとして特徴付けられます。
この特徴づけに従えば、SVX with YとSVX to Yのそれぞれでは、「S」が力を加えることで「X」が「Y」とwithあるいはtoの関係に移動することを意味することになります。その場合の「withあるいはtoの関係」とは一体どんな関係なのでしょうか。今回は、この点から前置詞のwithとtoの意味を考えてみたいと思います。
2010年6月12日土曜日
I was surprised!(6)
さて、ここまで来ると、『私は驚いた』によりは遥かに『私は驚かされた』に近いと考えられる英語のI was surprised.が、当の『私は驚かされた』ともやはり違う点を明らかにすることが出来そうです。
先ず、I was surprised.の場合、surpriseに対応する自動詞が存在しませんから、本来的他動詞が受身になっている、『私は騙された』、『私はそそのかされた』、『私は(心が)満たされた』、『私は(その存在を)印象付けられた』のような表現に相当します。これらには、『私は騙(だま)った』、『私がそそのいた』、『私の(心が)満ちた』、『私に(その存在が)印象付いた』のような自動詞表現が存在しません。そのため、「使役」が持つ「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」のような含意を生じません。僅かに、「受身」が持つ「迷惑」の意味が喚起される場合がある程度です。
それとは対象的に、『私は驚かされた』の方は、『私は(嘘を)信じ込まされた』、『私は楽しまされた』『私は喜ばされた』、『私は感動させられた』のように、『私は(嘘を)信じた』、『私は楽しんだ』『私は喜ばされた』、『私は感動した』という対応する自動詞表現でも十分表現可能な内容をわざわざ使役表現と受身表現を用いて、「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」のような含意を喚起し、更に「受身」の持つ「迷惑」の意味を借りて、幅のある解釈を生み出しています。
英語で言えば、I was forced/allowed/induced to believe a false story、I was forced/allowed/induced to enjoy myself、I was forced/allowed/induced to be gladのような言い方を選んでいるようなものです。これらは、I believed a false story、I enjoyed myself、I was gladのように言うことが出来るにも関わらず、わざわざ使役表現と受身表現を用いて、「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」のような含意を喚起しています。そもそも対応する自動詞表現を持たないsurpriseが用いられたI was surprised.にはそのような含意が生じません。
さて、最後にI was surprised.と日本語の『私は驚いた』、『私は驚かされた』の異同についてまとめてみましょう。I was surprised.は、(1)「何かが私を驚かす」という他動的な意味内容を含み、(2)その「驚かす」という力の行使の影響下に「私」がいたということを表現する、という点で『私は驚いた』よりも遥かに『私は驚かされた』という日本語の表現と類似している。けれども、(3)日本語の『驚かす』には『驚く』という対応する自動詞が存在するのに対して、英語のsurpriseには対応する自動詞が存在せず、(4)「自動詞が表す状況」を明示して、「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」といった幅のある意味が生じないため、(5)表現される主な状況はX is Ved to doでのX doesのようなものではなく、(6)あくまでもbe surprisedでひとまとまりの状況を表現するという点では、『私は驚かされた』よりも『私は驚いた』に近いとも言える。
I was surprised.「私は驚いた(そうされた)」
先ず、I was surprised.の場合、surpriseに対応する自動詞が存在しませんから、本来的他動詞が受身になっている、『私は騙された』、『私はそそのかされた』、『私は(心が)満たされた』、『私は(その存在を)印象付けられた』のような表現に相当します。これらには、『私は騙(だま)った』、『私がそそのいた』、『私の(心が)満ちた』、『私に(その存在が)印象付いた』のような自動詞表現が存在しません。そのため、「使役」が持つ「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」のような含意を生じません。僅かに、「受身」が持つ「迷惑」の意味が喚起される場合がある程度です。
それとは対象的に、『私は驚かされた』の方は、『私は(嘘を)信じ込まされた』、『私は楽しまされた』『私は喜ばされた』、『私は感動させられた』のように、『私は(嘘を)信じた』、『私は楽しんだ』『私は喜ばされた』、『私は感動した』という対応する自動詞表現でも十分表現可能な内容をわざわざ使役表現と受身表現を用いて、「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」のような含意を喚起し、更に「受身」の持つ「迷惑」の意味を借りて、幅のある解釈を生み出しています。
英語で言えば、I was forced/allowed/induced to believe a false story、I was forced/allowed/induced to enjoy myself、I was forced/allowed/induced to be gladのような言い方を選んでいるようなものです。これらは、I believed a false story、I enjoyed myself、I was gladのように言うことが出来るにも関わらず、わざわざ使役表現と受身表現を用いて、「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」のような含意を喚起しています。そもそも対応する自動詞表現を持たないsurpriseが用いられたI was surprised.にはそのような含意が生じません。
さて、最後にI was surprised.と日本語の『私は驚いた』、『私は驚かされた』の異同についてまとめてみましょう。I was surprised.は、(1)「何かが私を驚かす」という他動的な意味内容を含み、(2)その「驚かす」という力の行使の影響下に「私」がいたということを表現する、という点で『私は驚いた』よりも遥かに『私は驚かされた』という日本語の表現と類似している。けれども、(3)日本語の『驚かす』には『驚く』という対応する自動詞が存在するのに対して、英語のsurpriseには対応する自動詞が存在せず、(4)「自動詞が表す状況」を明示して、「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」といった幅のある意味が生じないため、(5)表現される主な状況はX is Ved to doでのX doesのようなものではなく、(6)あくまでもbe surprisedでひとまとまりの状況を表現するという点では、『私は驚かされた』よりも『私は驚いた』に近いとも言える。
I was surprised.「私は驚いた(そうされた)」
I was surprised!(5)
上で述べたとおり、『私は驚かされた』は『私は驚いた』と対応する自動詞で表現出来るところを、わざわざ『驚かす』という他動的あるいは使役的表現を用い、それを受身にすることで表します。そのため、「使役」が持つ「無理やりそうさせる」、「そうなることを止めない」、「そうするよう促す」のような含意を生じ、「受身」が持つ「迷惑」の意味を喚起して、幅のある解釈を許します。英語のI was surprised.は、1回目の書き込みで指摘したとおり、受身の形式を取っているという点では『私は驚かされた』と類似しています。ですが、surpriseにはそもそも対応する自動詞が存在しないため、I was surprised.は、対応する自動詞表現『私は驚いた』を持つ『私は驚かされた』とは成り立ちが明確に異なります。英語には、「驚く」という意味の自動詞が存在しないのです。
前回、『私は驚かされた』と『私は驚いた』の違いを理解するために例として挙げた『彼は死なされた』に相当する表現なら、英語にも見出すことが出来ます。He was forced/allowed/induced to die.が概ね英語のそれに相当します。ここで用いられているSVX to doという構文ならびにその受身文のX is Ved to doという構文は、いずれも「XがdoするようにVという動作がなされる」という意味を持っています。ですから、「He diesするように誰かの意図あるいは何らかの力が働いた」という意味が込められます。それに対して、He diedのような対応する自動詞表現には、そうした含意は伴いません。
前回、『私は驚かされた』と『私は驚いた』の違いを理解するために例として挙げた『彼は死なされた』に相当する表現なら、英語にも見出すことが出来ます。He was forced/allowed/induced to die.が概ね英語のそれに相当します。ここで用いられているSVX to doという構文ならびにその受身文のX is Ved to doという構文は、いずれも「XがdoするようにVという動作がなされる」という意味を持っています。ですから、「He diesするように誰かの意図あるいは何らかの力が働いた」という意味が込められます。それに対して、He diedのような対応する自動詞表現には、そうした含意は伴いません。
I was surprised!(4)
『私は驚かされた』は、『私は驚いた』と対応する自動詞で表現出来るところを、わざわざ『驚かす』という他動詞を用い、それを受身にすることで表現しています。『私は驚かされた』は、『私は驚いた』の違いは、例えてみれば『彼は死なされた』と『彼は死んだ』の違いに相当します。後者が単に「彼の死」を表現しているのとは対照的に、前者には様々な含意が読み取れます。「彼自身に死の原因や意志があったのではなく」、「誰かの意図あるいは何らかの力が彼を死へと追いやった」、「死ぬ必要はなかったが、死ななければならなくなった」、「死ぬはずではなかったのに、死ぬ羽目になってしまった」、「当初本人は死ぬ気が無かったが、その気にさせられた」、「誰かが止めることも出来たはずだが誰もせず、気の毒なことに彼自身はそれを止めることが出来なかった」などの文脈が十分想定されます。
これは、日本語の使役表現が持ち得る「無理やりそうさせる(英語ではmake/forceなどで表現されます)」、「そうなることを止めない(英語ではlet/allowなどで表現されます)」、「そうするよう促す(英語ではhave/induceなどで表現されます)」といったある程度の幅のある意味のいずれもが読み込み可能であることに起因すると思われます。また、日本語の受身には「迷惑」の意味が込められやすいという傾向にもようるようです。同じようなしくみから、『私は驚かされた』には『私は驚いた』には含意されない、そうした幅広い解釈が可能になるのです。
『私は驚いた』が単なる「私の驚き」を表現するに留まるのに対して、『私は驚かされた』には「私自身には驚きの原因はなく」、「誰かの意図あるいは何らかの力が私を驚きへと追いやった」、「驚く必要はなかったが、驚かなければならなくなった」、「驚くはずではなかったのに、驚く羽目になってしまった」、「当初驚くことは予想していなかったが、驚いてしまった」、「誰かが阻止することが出来たはずだが誰もせず、困ったことに驚きを避けることが出来なかった」のような含意が込められるのです。
これは、日本語の使役表現が持ち得る「無理やりそうさせる(英語ではmake/forceなどで表現されます)」、「そうなることを止めない(英語ではlet/allowなどで表現されます)」、「そうするよう促す(英語ではhave/induceなどで表現されます)」といったある程度の幅のある意味のいずれもが読み込み可能であることに起因すると思われます。また、日本語の受身には「迷惑」の意味が込められやすいという傾向にもようるようです。同じようなしくみから、『私は驚かされた』には『私は驚いた』には含意されない、そうした幅広い解釈が可能になるのです。
『私は驚いた』が単なる「私の驚き」を表現するに留まるのに対して、『私は驚かされた』には「私自身には驚きの原因はなく」、「誰かの意図あるいは何らかの力が私を驚きへと追いやった」、「驚く必要はなかったが、驚かなければならなくなった」、「驚くはずではなかったのに、驚く羽目になってしまった」、「当初驚くことは予想していなかったが、驚いてしまった」、「誰かが阻止することが出来たはずだが誰もせず、困ったことに驚きを避けることが出来なかった」のような含意が込められるのです。
2010年6月9日水曜日
I was surprised!(3)
以上の2回の解説で、英語のI was surprised.と日本語の『私は驚いた』は相当に意味内容が異なること、更に、それに比べて『私は驚かされた』の方が表現される意味内容という点では近いということが理解頂けたでしょうか。さて、それが理解できたとして、そもそも、「話者があるニュースを見て驚いた」という場合に、『私は驚かされた』という表現を用いるというのはいかがでしょうか。母語話者の皆さん、一人ひとりに検討して頂きたいと思うのですが、それは程度の差こそあれ不自然だと感じる方が少なくないのではないでしょうか。やはり、『そのニュースを見て私は驚かされた』などと言うよりも、『そのニュースを見て私は驚いた』と言った方がよほど自然に聞こえませんか。
それでは、『私は驚かされた』という表現がもっと自然に使われる文脈と云うのは、一体どんなものなのかを考えて見ましょう。先ず、「驚きの原因」もしくは原因となった「刺激」を表現する『~に』と『~して』という句に照らして考えて見ますと、『~して』という句は、『~に』という比較して『驚かされた』との相性が悪いようです。インターネット検索で検索してみると、『に驚かされた』が9,440,000件見付かるのに対して、『て驚かされた』は813,000例しか見つかりません。
(1) 彼がそう言った(したこと)に私は驚かされた。
(2) (?)彼のその言葉(態度・振る舞い)に私は驚かされた。
(3) ?彼のその言葉を聞いて(その態度・振る舞いを見て)私は驚かされた。
このことは、次のように『驚いた』にした場合の容認度と比べると、一層はっきりします。
(4) 彼がそう言った(したこと)に私は驚いた。
(5) 彼のその言葉(態度・振る舞い)に私は驚いた。
(6) 彼のその言葉を聞いて(その態度・振る舞いを見て)私は驚いた。
これは、『~して』の句が主語の表す登場人物の「力の行使」を表すことと深い関係がありそうです。既に述べたように、『驚いた』は主語の表す主語の表す登場人物の(中に生じる)力の行使を表現するため、『~して』の句と一貫性を保ちやすいと言えます。つまり、「主体が『~して』、『驚いた』となります。それに対して『驚かされた』が用いられると、「主語の表す登場人物が『~して』、何かがそれを驚かした」となり、「力の出所」と「力の及ぶ先」が交替することになります。
それでは、『私は驚かされた』という表現がもっと自然に使われる文脈と云うのは、一体どんなものなのかを考えて見ましょう。先ず、「驚きの原因」もしくは原因となった「刺激」を表現する『~に』と『~して』という句に照らして考えて見ますと、『~して』という句は、『~に』という比較して『驚かされた』との相性が悪いようです。インターネット検索で検索してみると、『に驚かされた』が9,440,000件見付かるのに対して、『て驚かされた』は813,000例しか見つかりません。
(1) 彼がそう言った(したこと)に私は驚かされた。
(2) (?)彼のその言葉(態度・振る舞い)に私は驚かされた。
(3) ?彼のその言葉を聞いて(その態度・振る舞いを見て)私は驚かされた。
このことは、次のように『驚いた』にした場合の容認度と比べると、一層はっきりします。
(4) 彼がそう言った(したこと)に私は驚いた。
(5) 彼のその言葉(態度・振る舞い)に私は驚いた。
(6) 彼のその言葉を聞いて(その態度・振る舞いを見て)私は驚いた。
これは、『~して』の句が主語の表す登場人物の「力の行使」を表すことと深い関係がありそうです。既に述べたように、『驚いた』は主語の表す主語の表す登場人物の(中に生じる)力の行使を表現するため、『~して』の句と一貫性を保ちやすいと言えます。つまり、「主体が『~して』、『驚いた』となります。それに対して『驚かされた』が用いられると、「主語の表す登場人物が『~して』、何かがそれを驚かした」となり、「力の出所」と「力の及ぶ先」が交替することになります。
I was surprised!(2)
『私は驚かされた』のうち、受動態形式を含む『驚かされた』の部分を形態素に分けて考えてみましょう(日本語の形態音韻分析は、基本的に清瀬先生の『日本語文法新論』(Nihongo bunpo shinron: Hasei bunpo josetsu (Japanese Edition)
)に従うことにします)。この部分は、odorok-as-are-taと分析されるのですが、それぞれ子音語幹の動詞orodok-u、使役の形態素-(s)as-、受身の形態素-(r)are-、完了ないし過去の形態素-taに相当します。ここで見て取れるように、odorok-asは「非過去」の-(r)uを加えて自立的な形にすると『驚かす』で、英語のsurpriseに相当します。そのため、odorok-asの部分は「ニュースが私を驚かした」という意味内容を反映しているということが確認できます。
更に、その後の要素も加えたodorok-as-areは、同様に「非過去」の-(r)uを加えて自立的な形にすると『驚かされる』で、英語のbe surprisedに相当します。ここでは、他動詞+-(r)are-が英語のbe passiveに相当することが分かります。従って、完了ないし過去の形態素-taを加えた『驚かされた』は、英語のwas surprisedと組成や表現される意味要素という点で高い類似性を持っています。
それとは対照的に、『驚いた』は組成や表現される意味要素という点で英語のwas surprisedとはかなり異なります。odoroi-taは、odorok-uという自動詞に-taがついた形ですので、「ニュースが私を驚かした」という意味内容は一切反映しません。odorok-uの意味内容は、「喜ぶ、悲しむ、気付く…」と同じように、肉体・精神の中に内的な力の行使(心的力の行使とで呼んでも良いでしょうか)が生じることに当たります。従って、「驚かす」というような主体が客体に働きかけるという意味内容とは、本質的に異なります。『「驚く』は表現される出来事の主な登場人物が一つであるのに対して、『驚かす』は少なくとも二つという点が決定的に違います。
)に従うことにします)。この部分は、odorok-as-are-taと分析されるのですが、それぞれ子音語幹の動詞orodok-u、使役の形態素-(s)as-、受身の形態素-(r)are-、完了ないし過去の形態素-taに相当します。ここで見て取れるように、odorok-asは「非過去」の-(r)uを加えて自立的な形にすると『驚かす』で、英語のsurpriseに相当します。そのため、odorok-asの部分は「ニュースが私を驚かした」という意味内容を反映しているということが確認できます。
更に、その後の要素も加えたodorok-as-areは、同様に「非過去」の-(r)uを加えて自立的な形にすると『驚かされる』で、英語のbe surprisedに相当します。ここでは、他動詞+-(r)are-が英語のbe passiveに相当することが分かります。従って、完了ないし過去の形態素-taを加えた『驚かされた』は、英語のwas surprisedと組成や表現される意味要素という点で高い類似性を持っています。
それとは対照的に、『驚いた』は組成や表現される意味要素という点で英語のwas surprisedとはかなり異なります。odoroi-taは、odorok-uという自動詞に-taがついた形ですので、「ニュースが私を驚かした」という意味内容は一切反映しません。odorok-uの意味内容は、「喜ぶ、悲しむ、気付く…」と同じように、肉体・精神の中に内的な力の行使(心的力の行使とで呼んでも良いでしょうか)が生じることに当たります。従って、「驚かす」というような主体が客体に働きかけるという意味内容とは、本質的に異なります。『「驚く』は表現される出来事の主な登場人物が一つであるのに対して、『驚かす』は少なくとも二つという点が決定的に違います。
I was surprised!(1)
I was surprised.は、大抵『私は驚いた』という日本語訳が当てられます。ですが、英語、日本語のしくみに従ってそれぞれの文の意味を理解すると、事情は随分と違ってきます。いずれも、あるニュースを聞いて話者が驚いたことを表現していると想定してみましょう。すると、英語の場合にはThe news surprised me.「そのニュースが私を驚かせた」という表現が可能であるところを、「話者」をいわば主人公として出来事全体を表現しようとした結果、be Vedという受動態形式(be passive(be受身)と呼ばれるものです)が選び取られています。
この英語の受動態形式は、動詞beと過去分詞からなりますが、過去分詞は、井筒先生の『場所と力』によれば、動詞から派生される形容詞で、元の動詞が表す力の行使の「影響下」を表現します。surprisedは、「驚かす」という力の行使の影響下を意味する形容詞で、beは主語の指示対象が、その「影響下」に位置することを表します。これらのしくみに基づくと、英語のI was surprised.は、他でもなく「私は驚いた」ではなく、「私は驚かしの影響下にあった」もしくは「私は驚かしの影響下に入った」といった意味内容で、日本語では「私は驚かされた」とでも表現しなければ明示しにくい要素が含まれています。
もっとも、日本語の受身には、しばしば「主語や話者にとっての迷惑」という内容が含意されやすいため、『私は驚かされた』には英語のI was surprised.に含まれない要素が込められやすいことに注意しなければなりません。けれども、『私は驚いた』には明らかに含まれない「意味内容」がI was surprised.には含まれるということも、また間違いない事実です。
日本語で『私は驚いた』と表現する限りにおいては、「ニュースが私を驚かした」とは考えていないのです。それに対して、I was surprised.や『私は驚かされた』では、「ニュースが私を驚かした」という意味内容が程度の差こそあれ表現されているのです。英語では、be passiveの成り立ちからこのことがはっきりしていますが、日本語ではいわゆる形態素の分析をしてみないと、母語話者も見逃してしまうかもしれませんので、あらためて丁寧に見てみることにしましょう。
この英語の受動態形式は、動詞beと過去分詞からなりますが、過去分詞は、井筒先生の『場所と力』によれば、動詞から派生される形容詞で、元の動詞が表す力の行使の「影響下」を表現します。surprisedは、「驚かす」という力の行使の影響下を意味する形容詞で、beは主語の指示対象が、その「影響下」に位置することを表します。これらのしくみに基づくと、英語のI was surprised.は、他でもなく「私は驚いた」ではなく、「私は驚かしの影響下にあった」もしくは「私は驚かしの影響下に入った」といった意味内容で、日本語では「私は驚かされた」とでも表現しなければ明示しにくい要素が含まれています。
もっとも、日本語の受身には、しばしば「主語や話者にとっての迷惑」という内容が含意されやすいため、『私は驚かされた』には英語のI was surprised.に含まれない要素が込められやすいことに注意しなければなりません。けれども、『私は驚いた』には明らかに含まれない「意味内容」がI was surprised.には含まれるということも、また間違いない事実です。
日本語で『私は驚いた』と表現する限りにおいては、「ニュースが私を驚かした」とは考えていないのです。それに対して、I was surprised.や『私は驚かされた』では、「ニュースが私を驚かした」という意味内容が程度の差こそあれ表現されているのです。英語では、be passiveの成り立ちからこのことがはっきりしていますが、日本語ではいわゆる形態素の分析をしてみないと、母語話者も見逃してしまうかもしれませんので、あらためて丁寧に見てみることにしましょう。
2010年6月3日木曜日
『かこつける』(3)
これまた、大野・佐竹・前田三先生(Iwanami kogo jiten (Japanese Edition)
)にお尋ねしてみました。すると、『かこつく』という下二段活用の動詞(先生方の辞典では『かくつけ』という連用形の形が見出し語です)は、「カコチツケの約」と書かれています。つまり、『かこつ』の連用形に『つく』(「付ける」の意味の下二段活用の動詞)が付いた『かこちつく』に由来し、それが音韻縮約で『かこつく』となったと説明されているのです。これは、kakoti-tuku > kakottuku > kakotukuのように、促音便と一般に呼ばれる現象が生じた結果と分析されているのではないかと思います。
この『つく』は、いわゆる「連体形が終止形を食う」現象(英語でも「与格が対格を食う」という現象が起こりました)で『付く』から『付くる』となり、「連用形の優位性」(これは琉球語で「連用形+uN(woriに相当)=終止形」を生じたのと同じ傾向ではないでしょうか)によって『付くる』は『付ける』になりました。その結果、『かこつく』の語形も平行して『かこつける』に変化していったのではないかと思います。
ここで無視出来ないのは、現代日本語で『かこつける』という言葉を用いる際、この『付ける』という要素を明示的ないし暗示的に話者たちが意識しているのではないかという点です。『なすり付ける』、『押し付ける』のように、「原因・理由・責任」を転嫁することを表現する際に用いられる動詞にも同じ要素が含まれていることから、明示的ではないにしてもそれらに共通する「~のせいにする」という意味内容が再解釈されたり、強化されたりしているのではないかと考えられます。
現代語の『かこつける』が、もはや「不満に思って、文句を言う」というような意味を持たず、従って『託ける』のように漢字で書かれると今ひとつ語の意味との結び付きが想起しにくいように感じるとすれば、それは、このように『なすり付ける』、『押し付ける』のような類義した意味内容を表す動詞との共通要素『つける』の存在によって、「~のせいにする」の意味が一層強化されたことによるとも考えられないでしょうか。
)にお尋ねしてみました。すると、『かこつく』という下二段活用の動詞(先生方の辞典では『かくつけ』という連用形の形が見出し語です)は、「カコチツケの約」と書かれています。つまり、『かこつ』の連用形に『つく』(「付ける」の意味の下二段活用の動詞)が付いた『かこちつく』に由来し、それが音韻縮約で『かこつく』となったと説明されているのです。これは、kakoti-tuku > kakottuku > kakotukuのように、促音便と一般に呼ばれる現象が生じた結果と分析されているのではないかと思います。
この『つく』は、いわゆる「連体形が終止形を食う」現象(英語でも「与格が対格を食う」という現象が起こりました)で『付く』から『付くる』となり、「連用形の優位性」(これは琉球語で「連用形+uN(woriに相当)=終止形」を生じたのと同じ傾向ではないでしょうか)によって『付くる』は『付ける』になりました。その結果、『かこつく』の語形も平行して『かこつける』に変化していったのではないかと思います。
ここで無視出来ないのは、現代日本語で『かこつける』という言葉を用いる際、この『付ける』という要素を明示的ないし暗示的に話者たちが意識しているのではないかという点です。『なすり付ける』、『押し付ける』のように、「原因・理由・責任」を転嫁することを表現する際に用いられる動詞にも同じ要素が含まれていることから、明示的ではないにしてもそれらに共通する「~のせいにする」という意味内容が再解釈されたり、強化されたりしているのではないかと考えられます。
現代語の『かこつける』が、もはや「不満に思って、文句を言う」というような意味を持たず、従って『託ける』のように漢字で書かれると今ひとつ語の意味との結び付きが想起しにくいように感じるとすれば、それは、このように『なすり付ける』、『押し付ける』のような類義した意味内容を表す動詞との共通要素『つける』の存在によって、「~のせいにする」の意味が一層強化されたことによるとも考えられないでしょうか。
『かこつける』(2)
そこで、私が日本語の語彙について考える際に先ずは相談に乗ってもらうことにしている大野先生、佐竹先生、前田先生(の例の辞典:Iwanami kogo jiten (Japanese Edition)
)にお尋ねしてみました。すると、「物事の原因・理由・責任を他人や他のことにかこつける言葉」の意味の『かこと』(『託言』と漢字では書くそうです)という名詞に由来するとのことです。
ここで、『かこと』は「他の人や物事のせいにしようとして発せられる言葉」という意味であるため、そのため『託言』のように『託』という漢字が用いられていると理解して良いのではないでしょうか。もちろん、何かを「人や物のせいにする」のと、「人や物に託す」のでは、随分ニュアンスも違いますし、後者は信頼して任せている印象を与えるのに対して、前者は責任逃れをして物事を投げ出しているように聞こえます。とはいえ、「自分の持っているもの、自分にあるとされているものを他の人や物に渡す」という出来事の構造は共通しています。
そして、「原因・理由・責任」をひとたび他の人や物に渡してしまうと、今やその人や物に「原因・理由・責任」があることになりますから、それによって生じたとされる状況に対する不満や文句は、その人や物に対して向けられることになります。そんなわけで、例えば「AさんがBさんに向かってある状況ついて『かこつ』」とすれば、「AさんはBさんにその状況が不満だと言っている」ことになります。もし、その「原因・理由・責任」をAさんがBさんに託した(!?)(つまり「原因・理由・責任」がBさんにあると判断した)とすれば、当然「AさんはBさんを責めている」ことになります。あるいは、「原因・理由・責任」が別の物や事にあるとAさんが思っているなら、「AさんはBさんに愚痴を零(こぼ)している」ことになります。
このようなしくみで、「不満に思って、文句を言う」ことと「~のせいにする」ことが表裏一体の関係であることが分かります。現代語で使われる『かこつける』には、もはや「不満に思って、文句を言う」というような意味は殆ど感じられません。ですが、「不満に思って、文句を言う」ことと「~のせいにする」ことの間に、このよう関係があることが分かると、古典語の『かこつ』と現代語の『かこつける』が歴史的に繋がっていることが納得できるのではないでしょうか、さて、それでは『かこつ』という語形が『かこつける』になってしまったのはどうしてなのでしょうか。
)にお尋ねしてみました。すると、「物事の原因・理由・責任を他人や他のことにかこつける言葉」の意味の『かこと』(『託言』と漢字では書くそうです)という名詞に由来するとのことです。
ここで、『かこと』は「他の人や物事のせいにしようとして発せられる言葉」という意味であるため、そのため『託言』のように『託』という漢字が用いられていると理解して良いのではないでしょうか。もちろん、何かを「人や物のせいにする」のと、「人や物に託す」のでは、随分ニュアンスも違いますし、後者は信頼して任せている印象を与えるのに対して、前者は責任逃れをして物事を投げ出しているように聞こえます。とはいえ、「自分の持っているもの、自分にあるとされているものを他の人や物に渡す」という出来事の構造は共通しています。
そして、「原因・理由・責任」をひとたび他の人や物に渡してしまうと、今やその人や物に「原因・理由・責任」があることになりますから、それによって生じたとされる状況に対する不満や文句は、その人や物に対して向けられることになります。そんなわけで、例えば「AさんがBさんに向かってある状況ついて『かこつ』」とすれば、「AさんはBさんにその状況が不満だと言っている」ことになります。もし、その「原因・理由・責任」をAさんがBさんに託した(!?)(つまり「原因・理由・責任」がBさんにあると判断した)とすれば、当然「AさんはBさんを責めている」ことになります。あるいは、「原因・理由・責任」が別の物や事にあるとAさんが思っているなら、「AさんはBさんに愚痴を零(こぼ)している」ことになります。
このようなしくみで、「不満に思って、文句を言う」ことと「~のせいにする」ことが表裏一体の関係であることが分かります。現代語で使われる『かこつける』には、もはや「不満に思って、文句を言う」というような意味は殆ど感じられません。ですが、「不満に思って、文句を言う」ことと「~のせいにする」ことの間に、このよう関係があることが分かると、古典語の『かこつ』と現代語の『かこつける』が歴史的に繋がっていることが納得できるのではないでしょうか、さて、それでは『かこつ』という語形が『かこつける』になってしまったのはどうしてなのでしょうか。
『かこつける』(1)
『病気にかこつけて休む』のような言い方で用いられる『かこつける』という動詞の意味について考えてみたいと思います。この動詞が「~のせいにする」くらいの意味で用いられていることは、多くの人が理解出来るかもしれません。けれども、この言葉は漢字で『託つ』と書かれること、古典語では『かこつく』もしくは『かこつ』という表現に相当することは、現在の日本語話者に広く知られたことではないかもしれません。私もこれまで読んだ文章の中で出くわし、辞書を引くなどして、いつしかこれらの事実を知るようになったのでした。それでも、そこに何ら疑問や興味を持つことなく暮らしておりました。
ところが、今年の春先だったでしょうか、奈良時代およびそれ以前の日本語に見られる母音の甲乙の区別について考え直してみたくなり、あれこれ調べながら源氏物語をいくらか読み直す中で、そういえば『かこつ』という表現は「不満に思って、文句を言う」の意味で用いられることが割と多かったなと感じたことがきっかけで、現代語の『かこつける』との関係に注意が向きました。はて、どうして「不満に思って、文句を言う」という意味の『かこつ』が「~のせいにする」意味になってしまったんだろう。また、『かこつ』の発音が『かこつける』と変ってしまっているのは何故だろう。そんなことをふと考え始めたのでした。
ところが、今年の春先だったでしょうか、奈良時代およびそれ以前の日本語に見られる母音の甲乙の区別について考え直してみたくなり、あれこれ調べながら源氏物語をいくらか読み直す中で、そういえば『かこつ』という表現は「不満に思って、文句を言う」の意味で用いられることが割と多かったなと感じたことがきっかけで、現代語の『かこつける』との関係に注意が向きました。はて、どうして「不満に思って、文句を言う」という意味の『かこつ』が「~のせいにする」意味になってしまったんだろう。また、『かこつ』の発音が『かこつける』と変ってしまっているのは何故だろう。そんなことをふと考え始めたのでした。
登録:
投稿 (Atom)